[引用についての注]
 ぼくたちの発する音、言葉、身振りが、発する個人に所属するのは見かけの上だけのことである。どのように、”新しく”“個性的”にみえようとも、歴史と文化の胎盤の中に、すでに用意された音、言葉、身振りの再構成、すなわち引用、読み替え、解読の結果なのだ。引用する過程で生じていくオリジナルとのズレを体験することによって、自己を形成している文化がその差異の中に存在していると、認識できるのだろう。

竹田賢一『地表に轟く音楽ども』

 過去をふりかえる時、二種類の特別な瞬間がある。
一つは、運命の構図をさとる時だ。その日ぐらしの、その時々の問題につきあたり、
先の知れない試行錯誤で切りぬけてきた年月が、
その時、これ以上にありえなかったものとして、あざやかな図式におさまってしまう。
この構図の中心に位置して、すべてが見とおせたと、
一瞬おもう。(……)
 特別な瞬間の第二は、方法を発見する時だ。統一された理解が計算できなかった現実につきあたって、
それがまぼろしにすぎなかったこと、
イデオロギー的図式だったことがあきらかになる。こうして世界像が消え、一瞬何も見えなくなり、
つかれ切ってすべての努力を放棄する時、
おおわれている低流、真の運動が再生する。この運動に気づかせるための一突き、
これが方法の発見の時だ。

高橋悠治『たたかう音楽』

<多様性>という代わりに、仮に<多様体>といってみよう。そのとき、思考にはどんな変化が生まれるだろうか。多様性はそれ自体じつに多様なあり方をする。多様なものを、多様性と呼んでいるかぎり、私たちは多様なものを、多様でないものから区別するだけで、多様なものを単に一つの形容詞のなかに閉じ込めてしまいかねない。そのとき、私たちは、対象について語っているのではなく、むしろ私たちの意識の状態について語っているだけだ。多様性は、私たちの意識が、とてもとらえきれないほど複雑な事象に直面したときの、驚きや叫びを翻訳する言葉である。多様なものについて、多様に語りながら、多様さのあいだを横断し、しかも多様なものを貫通する形をとらえるためには、多様なものを一つの性質として扱うのではなく、一つの対象として、あるいは<構造>として扱うことが必要だ。<構造>は、私たちにとって、決して均衡と透明さによって定義される一様な差異のシステムではない。<構造>は、私たちにとって、多様体そのものであり、異質な、不可視な渦をいたるところに含んでいる。その不可視に対して、ある透明性を私たちは浸透させたいのだ。
宇野邦一 『外のエティカ』

自分がどこにいるのか どうやってそこに着いたのか どこに行こうとしているのか どうやって来たのか知らないところからどうやって戻るのか 知らないまま諦めて。その調子で知らないまま 終わりが見えることもなく。知らないまま そしてそのうえ知る意志もなく 実際どんな種類の意志もなく したがって悔いもない 時を打つ音と叫びとが永久にやむことを彼が望んでいたことと それらがそうならなかったことを残念に思うことのほかには。時を打つ音 ときにはかすかにときにははっきり あたかも風に運ばれてくるかのように しかしそよ風もない そして叫び ときにはかすかにときにははっきり。

サミュエル・ベケット『なおのうごめき』

 自分が作り出した作品とそれを作った自分とのあいだに、ひどく大きいとも、ほんのわずかとも、どちらとも言えるような「隙き間」があいている。それはなにも、表現の技術が未熟なためとはかぎらない。むしろ名人になればなるほど、はっきりと意識されるだろうような「隙き間」である。(……)
音楽の場合には、演奏の創造性ということがよく問題になる。単に楽譜通りに再現するだけの演奏にはたして創造性があるのかどうかという疑問である。この疑問は、事柄の本筋を完全に見誤っていると思う。自身で楽譜を紙の上に書こうが、他人の書いた楽譜に忠実に音を出そうが、そんなことは本質的な問題ではない。音を作る自分と作られた音とのあいだの「隙き間」が聞き手に大きな印象を与えれば、それはいずれも立派な創作行為だということができる。
この「隙き間」は目に見えないものであるだけに、これを伝授したり共有したりすることはこのうえなく難しい。しかし芸術の本当のよろこびは、この捉え難いものを他人とわかちあうところにあるのもまた確かである。

木村敏『形なきものの形』 

 無限に転調されるサウンド以外にはほとんど何も生じない。そこには持続の感覚の激化のようなものがある。しかし、それは時間空間のなかで細かく切りつめられ、配置されるサウンドとは、厳密に言って何の関係もないという事実によって、よりいっそう耐えがたいものとなる。サウンドは偶然のように、どんな必然もないように、そして、一つのものから他のものへのつながりがないように思われる。つまり、それは束の間の構造の目じるし、聴き手の目じるしとなる空間点の炸裂である。

清水俊彦『ジャズ・ノート』

 私は雲に囲まれた硬い芯を想像する、一つの島、一つの山を見る、ノワズゥな海の中に散らばった群島を見る、雲の中、雪の下にあってくっきり浮き出した山塊をみる。私は、言語のざわめきの中に投じられた、明確な物の全体、破片、バベルの壁を、粘液質の激怒の横断した壁、あるいはその激怒に覆われた壁を想像する。私は混乱の中に沈んだ明快さを想像する、識別しえないもので浸食された明確なものを想像する。掩蔽された多様性の間に単位のきらめきを見る。私は雑音のもやを尖った棘をつらねて切り裂くくメッセージを聞く。
それだ、私が見て、耳に鳴り響くもの、私の想像するそれが、理論的な抽象的な風景であり、認識のモデルである。ところでそれは、同時に世界以外の何ものでもない。

ミッシェル・セール『生成 概念をこえる試み』

 音楽の新しい手法は、古い手法に内在する動きから発し、質的跳躍によってそこから離脱したものである。しかし、だからといって新音楽の重要な作品が伝統的な作品よりも頭で考え出されたもので、感覚的に表象された度合いが少ない、などということは、単なる無理解の投影にすぎない。

 精神の完全な自由の達成は、また精神の去勢をも伴う。それ自体は精神ではないが、あらゆる精神的形式によって暗に意味されているもの、
またそういうものとして精神に唯一、実質貸し与えているもの、それへ最後の依存から精神が身を解き放つとき、精神の物質的性格、単なる省察形式としての精神の事物化が明らかとなる。

Th.W.アドルノ 『新音楽の哲学』

 取るに足らなかったり、素晴らしかったり、儚かったり、鋼の鋭さで彫り刻まれていたり、それこそ無数の印象が、ありとあらゆる方向から数えきれぬ原子の絶え間ない雨となって、精神に降りかかる。

ヴァージニア・ウルフ『現代小説』

 現在の限界が無限に変化しうることによって、われわれは現在のうちに過去の断片をいくらでも取りこむことができるのである。今は現在のうちに埋没し、それによって侵される。しかし現在は、それだからといって、非・今ではない。それはそのうちに今のなにものかを保存している。それは展開せる今である。

ミンコフスキー『生きられる時間』

 自然科学では、よいそして実りある革命は、まずある狭い輪郭のはっきりした問題を解くことに限ったときに、しかも最小限の変更にとどめるよう努力したときにだけ、ただそのときにだけ遂行され得ます。今までのすべてのことを放棄してしまって、勝手に変更しようとする試みは全くのナンセンスに終わります。(……)それでもどうしても変えねばならなかったそのわずかなものが、後になると、変化を起こさせる力を持つようになって、ほとんどすべての生活様式が自然に変形されるようになるのです。

W.ハイゼンベルク『部分と全体』

 インプロヴィゼーションという言葉を使うことに明らかに抵抗があり、即興演奏家によっては積極的な反感を表明している。これは広く受け取られているインプロヴィゼーションにまつわる語感のせいだと思う。インプロヴィゼーションは、準備のいらないもの、熟慮を要しないもの、まったくその場かぎりの活動、軽薄で非論理的で、計画やメソードを欠いたものという意味を与えられている。そして演奏家たちは自己の経験から、こうした意味内容は正しくないことを知っているので、反対するのだ。彼らは、即興演奏以上に、技能や専念、周到な準備や訓練、真剣なかかわりを要する音楽活動はないことを知っているのだ。

デレク・ベイリー『インプロヴィゼーション-即興演奏の彼方へ』

 想像してみよう、人のつくった遠近法の法則などに支配されない眼を。構図の理論なんて先入観をもたない眼を。物の名前にただ反応するのでなく、生の中で出会うものたちを知覚の冒険を通して知っていく眼を。"緑色"なんて知らずに這っている赤ん坊の眼には草の上にどれほど多くの色があることか。何も教え込まれていない眼に光はどれほど多彩な虹をつくりだすことか。そんな眼は熱波の変化もどれほど敏感に感じとることか。想像してみよう、理解できないものたちで溢れた世界を。終わりなき動きと数えきれぬ色で光ゆらめく世界を。想像してみよう、"はじめに言葉ありき"以前の世界を。

スタン・ブラッケージ「視覚の隠喩」『ブラッケージ・アイズ2003-2004』

最も長い梯子をもっていて、最も深く下ることのできる魂、
自分自身のうちに最も広い領域をもっていて、そのなかで最も長い距離を走り、迷い、さまようことのできる魂、
最も必然的な魂でありながら、興じ楽しみながら偶然のなかへ飛びこむ魂、
存在を確保した魂でありながら、生成の河流のなかへくぐり入る魂、所有する魂でありながら意欲と願望のなかへ飛び入ろうとする魂、
記憶の営みに決別する魂でありながら、矛盾に寄り添い、積み重なる魂、
自分自身から逃げ出しながら、しかし最も大きい弧を描いて自分自身に追いつく魂、
最も賢い魂でありながら、物狂いであることの甘い誘惑に耳をかす魂、
自分自身を最も愛する魂でありながら、そのなかで万物が、流れ行き、流れ帰り、干潮と満潮をくりかえすような魂

ニーチェ「第三部-新旧の表」『ツァラトゥストラ』

音はどこからくるのだろう。ものにふれて音をだす。そのとき、ものと人とをむすぶ空間がうまれる。
そのなかで人とものが出会い、見つめあう。
その空間を音と呼んでみる。音をだすやりかた。たたく、こする、息をふきこむ、ゆらす、など。
音が返ってくるやりかたを選んでためす。
もののなかにかすかなゆらぎがおこる。それはおおきくなり、外側へさそいだされて音になる。
音が音になる前、ものの内側のゆらぎは、もうくりかえされている。くりかえすからおおきくなり、外にでる。
変化はくりかえし、くりかえしは変化。
音が音になるためにつかうのは、からっぽな空間。ものの外だけではなく、内側にも。穴のあいたものは、よくひびく。
竹や葦。ものの組織もあらく、すきまをふくむ方が、ひびきをそだてる。
人間の内部で。意識さえされないかすかなうごきがどこかにおこる。
意志のゆらぎは、くりかえされておおきくなり、ものに向かう身振りとなってあらわれる。
身振りのこたえが音になって耳から帰ってくる。これがフィードバック回路として完結するのは、
それがくりかえし維持されてる間だけのこと。一度たたけば、もう一度たたく。
一息つけば、また一息。音がとまれれば、みちも消える。
音のうまれるときは、人間の内部にもからっぽな空間がある。心にじゃまされずに音に気づき、
音のはこびをほとんど意志の力で消えるまでたどる。音をつくる身振りは訓練をかさねて、意識からはなれていく。
フィードバックの環がまわりだすと、はじまりの点はもうない。
音がめざめる瞬間は、もののなかにあるのか。人間のなかにあるのか。そのどちらでもない。音はどこかある場所にあるものではなく、音が空間であり、場所である。音がめざめると、そのなかにものがあり、そのなかに人間もいる。
文明は、ものを手の延長として、人間から人間に伝える音楽をつくる。
世界と人間をふくんだ音という空間は文明より前にあった。
音というしずくに内側からうつる世界のなかのものと人間。だが、音がうつしているのは、それだけではなかった。
音がめざめる前の音は何だろう。音というこの空間はどこからでてくるのだろう。
見えない世界、音の裏側にある何もふくんでいない空間、要素をもたない空の集合。
そこから音がひらくとき、それは窓になって、世界と世界でない場所の間にひらく。

高橋悠治 『カフカ夜の時間』

 インプロヴィゼーションによって革新がもたらされることもあるが、その分野においてつねに先端にありたいという願望をすべての即興演奏家が抱いているわけではない。方法論としては、即興演奏家は音楽創造における最古の方法をもちいているのである。
即興演奏の音楽性についてはっきりいえることは、それがなにかというアイデンティティーの精緻な規定が欠如しているということだ。スタイルやイディオムでどうしても守らなければならないものであるわけではない。決まったイディオムにもとづく音があるわけでもない。ひとりであるか複数であるかはともかく、それを演奏する者と音/音楽が合致したときにはじめて、フリー・インプロヴィゼーションの性格は確定するのである。
デレク・ベイリー『インプロヴィゼーション-即興演奏の彼方へ』

 価値基準として「面白い」を使う。それでも長くやっていると否応なく便利な言い逃れとしての切れ味が弱まってくる。かつて不遜とすら目された「面白い」という言い回しの切っ先は錆びつき、せいぜい、行動や判断の結果を歯牙にもかけない軽蔑的な姿勢にだけ、その残滓が垣間見られる。(中略)
体験の中身の貧弱さを補填しようとすれば、「退屈」の全貌を「徹底的」に解明する必要にかられるーーー憂鬱と渇望(押さえ込まれた絶望)である。そのうえではじめて、「面白い」の全貌の徹底的な解明ができる。だが、その結果明らかになる「面白さ」の体験ーーーフィーリングーーーの質はどうだろう。たぶん、もはや「面白い」とは呼びたくもないたぐいのものではないだろうか。

スーザン・ソンタグ「美についての議論」『同じ時のなかで』

 学者、専門家、お年寄りのことは知らない。だが現代に生きるものは、強弱こそあれ、すべて現在、未来に賭けている。ところで、賭けていながらーー前につんのめった姿勢。自分の身体の中心に、なにか空虚感がある。
なにか充実させなければならない。人はふりかえる。しかし自分自身が空であるように、後にもなにもない。そのときいいようのない不安な気分にとらわれるのだ。
われわれは前方につっ込むのと同じ激しさ、叡智で、過去の空虚を凝視しなければならなくなる。そのエネルギーによって、過去は次第に現在的な価値になってありありと現出してくるのである。そして現在も充実するのだ。
抽象的な言葉と思われるだろうか。今日、芸術、文化、あらゆるものが激しく前につき進む。その力が激しければ激しいほど、その生活と歴史の根源にあるものを常にふりかえらなければならない。その意味でだけ、過去はこれからの芸術の巨大なエネルギー源になるのである。

岡本太郎「伝統とは何か」『私の現代芸術』

 われわれは、聴取された音を内的に反復して、その音の出所である心理学的状態、初めの状態へと再び身を置くのだということを認めないとしたら、音楽の表現力、というかその暗示力は、果たして理解されるであろうか。もっとも、この初めの状態については、われわれはこれを表現する術を知らないとはいえ、われわれの身体の全体が採用する運動によってこれは暗示されているのだが。

アンリ・ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』

盲人が夜の中に手をさしのべる。
日々は過ぎる。そして私は逃れ去るものを捉えとどめえたと錯覚する。
処置なしだ。先日の私たちの会話のあとであなたが書いた文章を私は読みかえす。書かれてしまうと言われた言葉は失われる。すべての問い、すべての答は価値を失う。(どの問いに対しても別の答えがなされるであろう。)
もしも私に作ることが出来るのならば(しかし私がそれを本当に望んでいるのかどうか私は確かではない)、もしも私に一つの彫刻一つの絵画を私の欲するように(しかし私は私が欲しているものを言うことが出来ない)作ることができるのならば。もしも私にそれらを作ることが出来るのならば、それはずっと前から作られていたはずだと私は思う。

アルベルト・ジャコメッティ『エクリ』

「世界は記号によって織りなされているばかりではない。世界は私にとって徴候の明滅するところでもある。それはいまだないものを予告している世界であるが、眼前に明白に存在するものはほとんど問題にならない世界である。これをプレ世界というならば、ここにおいては、もっともとおく、もっともかすかなもの、存在の地平線に明滅しているものほど、重大な価値と意味とを有するものではないだろうか。それは遠景が明るく手もとの暗い月明下の世界である。」

中井久夫『徴候・記憶・外傷』みすず書房

 自由を考える自由な思考は、自分が彷徨い迷っていること、「活動という観点からすれば耐え=許しがたい悪の執拗さによって敗北していることを知っているべきである。思考は、自らの極限まで押しやられていることを知っているべきである。この極限はあらゆる言説の冷酷な物質的な無力の極限であるが、そこでは思考が、自分自身であるために、自らのうちであらゆる言説と縁を切り、受動=受苦となるほど身を曝すような極限でもあるのだ。この受動(パッション)において、この受動を通して、すでにあらゆる「活動」に先だってーーしかしあらゆる自己拘束への準備もできていてーー自由が活動する。

ジャン・リュック・ナンシー 『自由の経験』

新しさ、新しい何ものかとは、まさに特定的なものが普遍的なもののなかにある、ということである。新しいものは、あきらかに持続現在ではない。純粋現在は特定的追憶と同じく物質の状態の方へ向かうが、それは(追憶の場合のように)その展開の力によってだけではなく、その瞬間性の力によってである。しかし特定的なものが普遍的なもののなかへ、あるいは追憶が運動のなかへ降りてゆくとき、自動行為は意志的で自由な行動に席をゆずる。新しさとは、同時に、普遍的なものと特定的なものの間を行きつ戻りつし、それらを互いに対立させ、特定的なものを普遍的なもののなかに入れこめる、一存在の本性である。

ジル・ドゥルーズ 『差異について』

「技術というものは常にそうですが、基本的にはそれによって制御できる範囲を広げ、制御できない部分を最小限にとどめようとします。しかし、制御できる範囲が広がればそれにあわせて制御できない部分が減ってしまうのかと言えば、逆に制御できない部分がうみだされていくのではないでしょうか。新しい楽器についてもそれは同様で、どんなに科学技術が発達しても自由な即興演奏が無効にならないのも、そのことと関係があります。たとえばコンピューターによる制御の技術が発達すれば、その技術に沿うようにして、たとえばハッカーのような人たちが出現して新しい未知数の制御不能性が開拓されていくというわけです。自由な即興演奏というのは、ある全体性があるときに、それを完全には制御できないということ、たとえばアンサンブルを邪魔したくなってしまう人、そこからどうしてもはみ出してしまう人といった要素と本質的に関係しているのです。」

デレク・ベイリー/インタビュー 1993年 (インタビュアー 椹木野衣)

 白いカンヴァスの上に青、緑、赤などの感覚をまき散らすと、一筆加えるごとに前に置かれたタッチはその重要さを失ってしまう。室内を描くとする ――私の前には戸棚があり、実にいきいきとした赤の感覚を私に与えている。そして私は満足のいくような赤を置く。この赤とカンヴァスの白との間にある関係が生まれる。そのそばに緑を置き、黄色で寄せ木の床を表現しようとする。(中略)だが、これらのさまざまな色調はお互いを弱めてしまう。私の使ういろいろな記号はお互いを殺さないように釣り合いがとれていなければならない。

アンリ・マティス『画家のノート』

 すべての言葉のゆきつく先、あるいは言葉のうまれ出るその端緒に、当の言葉をはねのけ、あらゆる命名を拒絶する不透明な「沈黙」の領域がある。そして、それがすべての言葉を支え、活性化する最も根源的な何ものかであるに違いない。いま、われわれのまわりには無限のパラフレイズを可能にする化石化した言葉の群れがうずまいている。いや、より正確には、そのような言葉を与えられた環境として、そのなかに生きることに慣れてしまったわれわれの、なによりも怠惰な感性がある。それは悲しいけれど本当のことだ。

中平卓馬「言葉を支える沈黙」『来たるべき言葉のために』

(……)「鐙」のテクノロジーは、まさに「仕組み」assemblagesの例としてふさわしいことがあらためてわかる。それは単に身体を拡張させるばかりでなく、身体が道具や動物の肉体と組み合わさって、さらに結果的に新しい精神mind--たとえば、遊牧民による戦闘にみあった社会観や諸個人の感覚--を生み出すことになる。(……)鐙と馬とが組み合わさることによって、二種類の異質な力、複数の機能の出会いと相互のはたらきかけによって、新しい能力が生まれる(それまでになかった戦闘法を遊牧民はあみだした)。

上野俊哉『四つのエコロジー フェリックス・ガタリの思考』

数式であらわされた法則が現実を記述するかぎり、その法則は信頼に値しない。法則が信頼に値するかぎり、それは現実を記述するものではない。

アインシュタイン

一つの彫刻は一つの物ではない。それは一つの問いかけであり、質問であり、答えである。それは完成されることもあり得ず、完成でもあり得ない。そういったことは問題にすらならない。

アルベルト・ジャコメッティ

「わたしは移り変わってゆく焦点ー単に事物に対するひとつの関係、ないしはいくつかの関係ではなく焦点次第でたえず変化し、移ろう関係から生まれでるように見える作品を好む・・・・わたしに関心があるのは、ある事物が、かつてあったところのものでないこと、いまあるところのものとは別のものになること、ある事物を正確にそのものとして認める瞬間が流れ去ってゆくこと、どんな瞬間にもその瞬間が去るのを見、あるいは言い、おまけに立ち去らせるように仕向けることである。」

ジャスパー・ジョーンズ 

(……)異常な存在とは通常の存在よりいくらか未来のすくない存在のことだ。そうしたものは、矛盾を隠しもつ多くの思考に似ている。そうした思考は精神のなかに産みだされ、いかにも正当かつ豊饒に見えるのだが、その帰結がそれらを滅ぼしてしまう、現に存在しているということ自体がやがてそれら自身にとって不吉なものとなるのである。
――だれが知ろう?数世紀このかた、多くの偉人たち、そして無数の小人物たちが苦しい努力を遂げてきたあの数々の驚くべき思想の大部分が、じつは、心理的畸形に他ならない、――わたしたちが質問能力を無邪気にふりかざし、ほとんどいたるところに適用して、――わたしたちは、分別をわきまえて、真に答えてくれるもののみに対して問いを発するべきなのだということに気づかずに――生み出してしまう「怪物観念」に他ならないということを。
 しかし、肉の怪物はすみやかに滅びる。とはいえそれらはいくらかは存在したのだ。彼らの運命について想いをこらすほど多くを教えられることはない。
 なにゆえにムッシュー・テストは不可能なのか?――この問いこそは彼の魂だ。この問いがあなたをムッシュー・テストに変えてしまう。というのも、彼こそは可能性の魔そのものに他ならないからである。自分には何ができるか、その総体への関心が彼を支配している。彼はみずからを観察する、彼は操る、操られることをのぞまない。彼は意識を意識自体の行為へと還元したときのふたつの価値、ふたつのカテゴリーしか知らぬ、――可能事と不可能事のふたつだ。哲学はほとんど信用されず、言語はつねに告発されているこの奇怪な脳髄のなかでは、束の間のものだという感情をともなわぬ思考はほとんど存在せず、そこに存在するものといっては、期待と限定されたいくつかの操作の実行のほかはほとんどない。彼の激しく短い生命は、既知と未来との関係を設定し組織する機制(メカニズム)を監視することについやされる。それどころか、この生は、隠された卓越な能力を行使して、無限というものが断じて姿を見せぬ孤立した一体系の諸特性を執拗に装うのである。

ポール・ヴァレリー 『ムッシュ・テスト』

 あの風呂敷の中身、重い角張ったこわれやすい物は一体全体何であったか、と考えると発狂しそうになる。それが何であったかはしゃべるまい。しゃべりたくないのではなく、そのいとまが与えられぬほど、それは発見されつづけている状態にあったのだ。
土方巽『美貌の青空』

何も変えてはならない、
すべてが違ったものとなるように。
(……)
そう、夜のとばりが降りて、
別の世界が目を醒ます。
辛辣で世をすね、文字も記憶も失った世界が、
無分別に向きを変え、のっぺりと拡がる。
まるで遠近法も消失点も
廃棄されたかのように。
奇妙きわまることに、
この世界の生ける屍たちは、
かつての世界に根づいている。
思考も
感覚もかつてのものだ。
(……)
絶滅を忘却することは、
絶滅の一部をなしているからだ。
(……)
あなたには手が二本あるのか、と盲人が尋ねる。
けれども、私はそのことを、
目で見て確かめようとしない。
そうだ。
そこまで疑わなければならないようなら、
どうして自分の目を信頼できよう?
そうだ。
見えるかどうかと両手に
目をやるとき、私が確かめようとしているのが
どうして自分の目ではないと言えよう?
(……)
不動と沈黙によって
伝達されるあらゆる事柄を
汲み尽くしたことを確認せよ。
(……)
つまり、われわれの眼前にある物体は、
互いに互いを遮っている。
空は丘に対する境界線となり、
山脈は空を隔てる。
大地は海の輪郭を描き、
今度は海があらゆる大地を区切る。
だが、あらゆるものの彼方には、
それを終わらせるものが何もない。
(……)
君の人生で全く異なる一つの場所をそれに与えよ。
君の人生で全く異なる一つの場所をそれに与えよ。
(……)
詩人たちは
死すべき者たちであるが、
厳かに詠うことで
逃げ去った神々の痕跡を感じ取り、
その痕跡の上に留まり、
そうすることで死すべき者や
兄弟たちに
転換への道を示す者である。

だが、死すべき者たちのうちの誰が、
そのような痕跡を
明るみに出せようか。
しばしば人目に付かないことは、
諸々の痕跡の属性だが、
それらは常に、
ほとんど予感されたことのない
ある指示の名残なのである。
乏しき時代に詩人であることは、
詠うことで
逃亡した神々の
痕跡に耳を澄ますことである。
(……)
彼らはそれがどんな歴史なのか知りたかった、
大きな歴史のなかの、彼ら自身の歴史、
彼ら自身の歴史のなかの、大きな歴史を。
そしてまた彼らは、
自分たちの芸術の文化的遺産を
受動的に受け継ぐのではなく、
自分自身の先駆者を見つけ出そうと決意していた。
例えばボードレールがエドガー・ポーを訳したとき……
(……)
ある朝、われわれは出発する、
脳髄には炎をみなぎらせ、
胸は怨みと苦い欲望の数々に
蓋がれつつ、
そして、うねる大波の律動のまにまに、
私たちはゆく、
海原の有限の上に、
われらの無限を揺りながら。
(……)
正気の人間なら
時を叙述として手にしたりはしまい。
まるでそれは、
一時間もの間、
たった一つの同じ音、
あるいはたった一つの和音を
鳴り響かせようと考えて、
それが音楽だと言い張るようなものだ。
(……)
目に映るものが単なる偶然と化さないことを願いつつ、
われわれが顔をうずめていた、あの甘美さを、
取り戻す術はない。
一切がわれらのもので、
一切がわれらに返し与えられていたとき、
何一つ移ろいゆくものはなかった。
なぜなら、宇宙の時は、
持続を知らずに移ろうものだったから。
おお、故郷への帰還よ、
おお、宇宙の時よ、
幼子の物言わぬ瞳には何一つ沈黙したものもなく、
すべてが新たな創造だった宇宙の時よ、
おお、故郷への帰還よ、
おお、内界と下界の音楽よ!
(……)
芸術の絶望、
滅びゆくものから、
言葉、音、石、色から、
不朽のものを創り出そうとする
その絶望的な試み。
形をまとった空間が、
時代を超越して保たれゆくために。
(……)
言葉を聞き分けられずに、
離れてそれを耳にした者なら、
何も言っていなかったと、思うはずだ。
安堵しきった耳にとっては、
取るに足らぬことなのだ。
(……)
思考する者もいれば、
行動する者もいると言うが、
真の人間の条件とは、
手で考えることだ。

われわれの道具のことを悪く言うつもりはない、
ただ私はそれが使えるものになってほしいのだ。

危険は道具のうちにではなく、
われわれの手の弱さの方にであるのが、
概して真実であるにしても、
機械のリズムに身を任せた思想こそが、
自らをプロレタリア化してしまうということは、
だからこそはっきりさせとおかなければならない。
それにそんな思想は、
もはや創造を糧にはしていない。
(……)
綱渡り師がもっとも不安定な
平衡状態に陥っている間、
われわれは願いをかける。
この望みは奇妙に二重であり、
しかも無効である。
われわれは彼が落ちてほしいと願い、
われわれは彼が持ちこたえてほしいとも願う。
しかもこれは欠かすことのできない願いだ。
全く矛盾しつつも心から
われわれはその願いを抱かずにはいられない。
その願いこそわれわれの魂を
瞬間的に掻き出すものだからだ。
魂はその男が落ちるだろうと、
落ちるべきだと、
落ちるはずだと思い、
自らのうちで彼の落下を遂行し、
自分が予期したことを望みつつ、
動揺から身を守る。
魂にとっては、彼はすでに落ちているはずだ。
魂は自分の目が信じられない。
眼差しはロープの上の彼を追ったり、彼を突き落とそうとしたりすることもないだろう。
彼がまだ落ちていなかったにしても。
(……)
けれども彼がまだ持ちこたえているのを見た魂は、
持ちこたえている理由があるはずだと認めねばならず、
その理由を持ち出して、
それが通用することを嘆願する。
時として、あらゆるものの、
そしてわれわれ自身の存在とは、こんな類の現れ方をするのだ。
(……)
存在しているという私の感覚は、
まだ私ではない。
それは直感的な感覚であり、
私の中で、
ただ私なしで生まれる。
(……)

ジャン リュック・ゴダール 『映画史』

わたしが知らないのをわたしが知らないならば、わたしは知っているとわたしは思う。
わたしが知っているのをわたしが知らないならば、わたしは知らないとわたしは思う。

(……)

人は内側にいる
それから、これまでその内側にいたものの外側へ出る
人はからっぽな感じがする
なぜなら自分自身の内側にはなにもないからだ
自分がいまその外側にいるものの
内側に入り込もうと、ひとたび試みるやいなや
人はたちまち自分自身の内側に
――人がかつてその内側にいたところの外側のむこうにあるあの内側に――
入り込もうと試みるのだ
食べようとして、また食べられようとして
外側を内側に持とうとして、そして外側の内側にいようとして

R.D.レイン『結ぼれ』

得体のしれない音をきく
それは一箇の神秘だよ
神秘でないよ気圧だよ
気圧でないよ耳鳴りさ

宮沢賢治『春と修羅』

 音楽は、もろもろの対立と連関の、つまり音域における音階の諸変化の抽象的な一体系であって、それが奏でられるとき二つの結果がもたされます。第一に、自我と他社の関係が逆転する。なぜなら、私が音楽をきくとき、私は音楽を通じて私自身をきくのですから。第二に、魂と肉体との関係が逆転し、音楽は私のうちにおいて自らを生きるのです。
レヴィ=ストロース「人類学の創始者ルソー」『未開と文明』

 文字どおりの、何の準備もなしに、白紙の状態で演奏することがフリー・インプロヴィゼーションならば、それが可能なのは生まれたばかりの赤ん坊だけに違いない。(中略)即興しようとするとき、人は自分が属している文化の音楽的パラダイムを一足跳びにして演奏することはできない。それはたとえば、インドの音楽家がラーガから離れた即興演奏をするには、ヨーロッパの音楽をはじめとするインド音楽以外の音楽によって、自己の音楽を相対化しなければならないという制約によって現れる。ジャズ・ミュージシャンがフリー・インプロヴィゼーションに踏み出すとき、まずはコード・プログレッションの無視から開始しなければならなかったのも、ヨーロッパのミュージシャンが作曲の解体、調性の否定から始めなければならなかったのも、同様の機制から発している。フリー・インプロヴィゼーションのフリーとは、まずは自己の抱いている音楽の範列から身を引き離す自由として獲得されるのである。
竹田賢一『地表に蠢く音楽ども』

身体は、時間においては現在の瞬間に封じ込められ、空間においてはそれが占めている場所に限定されて、ロボットのように振る舞い、外的刺激に対して機械的に反応しているのですが、その身体の傍らには、空間においては身体よりも遠くに広がり、時間を通じて持続しているような何かがあり、もはや自動的でも予測されたものでもなく、予期しえない自由な運動を身体に対して要求し、あるいは強制しているような何かがあることを、今そこでわたしたちは捉えているのです。この何かは、あらゆる側面で身体の外に溢れ出し、自らをあらたに創造することでさまざまな行為を創造しています。それは、「わたし」であり、「こころ」であり精神なのです。精神とは、それ自体が包み持っている以上のものを、自らのなかから引き出し、それが受け取る以上のものを返し与え、自らが有する以上のものを生み出すものなのです。

アンリ・ベルクソン 「こころとからだ」『精神のエネルギー』

人は勝手に感覚や、感情や、情動や、そして万能の観念を創造したのだが、それらは人が愛や、名誉や、自由や、真理という言葉を口にするとき、誰もが互いを理解し、同じことを考えていると信じ込ませてしまうのだ、愛、名誉、自由、あるいは真理という観念ほどひとりの人間を他の人間から隔てるものはないというのに。だから私は秘密の世界や、世界に隠された何かがあるなどとは信じない、見かけの現実的なものの下に、観念、知覚、実在性、あるいは真理の、埋もれた、あるいは抑圧された諸段階があるとは信じない。すべてはそしてとりわけ本質的なものは、むき出しのまま表層にあったのだし、それが垂直に、そして奥底に沈みこんだのは、人間たちがあくまでそう主張するすべを知らず、そう望まなかったからだと私は思っている。それだけのことである。

アントナン・アルトー 「アンドレ・ブルトンへの手紙」『アルトー後期集成』

ミュージシャンたちが楽器に、パートナーたちに、そして自分自身に立ち向かうことによって、その音楽は聴衆にも立ち向かう。この極度に張りつめた音楽には、言外に含まれた意味などない。共犯関係もなく、思いやりもない、つまり呼び出された証人の前での容赦ない闘争である。そこにある解き放たれた暴力がすべての人をとらえて離さず、したがって誰もしんから無事にまぬがれることはないのだ。

(……)

あらゆる点から見て、楽器はもはや感情を表現するために素材にかたちを与えたり、それらを変形したりするといったミュージシャン奉仕する道具ではなく、音楽に直面するための特権的な場、そこでミュージシャンが難局を切り抜けることを選ぶ場所と見なすことができる。

(……)

それは人間の根本にある過激な何ごとかを表現する。外部に音があり、それを聞くことはありふれた経験だ。何ごとかにぶつかって怒りの感情をもつことも、ごくありふれた経験である。けれども、音と怒りが別々でなく、響と怒りが切り離しがたく合体したひと塊まりの嵐としてぼくらを襲うとき、この体験は日常的なものではなく、きわめて異常なものになる。響きとは怒りとは、人間が時折り出会うことを余儀なくされる危機の表現だ。この危機に呑み込まれて没落するものもあれば、この危機をのりこえて力強く再生するものもある。

清水俊彦 『ジャズ・アヴァンギャルド』

まず体。いや。まず場所。いや。まず両方。いま片方。いま他方。片方に厭き他方をためす。それに厭き片方に厭きに戻る。そうしてさらに。まだどうにか。両方に厭きるまで。吐いて去る。どちらもないところへ。そこに厭きるまで。吐いて戻る。また体。一つもない。また場所。一つもない。またためす。また失敗する。もっと良くまた。あるいはもっと良くもっと悪く。もっと悪くまた失敗する。なおさらもっと悪くまた。これっきり厭きるまで。これっきり吐く。これっきり去る。これっきりどちらもないところへ。これっきり。

(……)

まず一。まずもっと良く一で失敗してみる。悪いことにそこでは何か不都合がない。実際それが悪くないわけではない。ない顔は悪い。ない手は悪い。ないー。充分。くたばれ悪い。たんなる悪い。もっと悪いへの道。なおさらもっと悪いへ向かって。まずもっと悪い。たんなるもっと悪い。なおさらもっと悪いへ向かって。加えてー。加えて?けっして。それをうなだれさせる。それをうなだれさせておく。深く低く。帽子をかぶった頭が消え去り。それ以上の背中が消え去り。外套はもっと上で切れ。骨盤から下は何もない。うなだれた背中のほか何もない。上もなく下もない胴体の背面。薄暗い黒。見えない膝をついて。薄暗い虚空のなか。もっと良くもっと悪くそう。なおさらもっと悪いへ向かって。

(……)

誰のものとも知れぬもっと悪化する言葉。どこからとも知られず。なんとしても知られず。いまは最悪のかぎりをつくして言うためにただそれらはただそれら。薄暗さ虚空影すべてそれら。それらが何を言うかをのぞいて何もない。どうにか言う。それらをのぞいて何もない。それらが何を言うか。誰のであれどこからであれ言う。最悪のかぎりをつくしてずっともっと悪く言いそこなう。

(……)

滲み続け戻りばらばらの広大無辺を取り消すのではなくまた言う。また見られると言う。いや、またもっと悪く。虚空のばらばらの広大無辺。いまのところ言い間違えられたすべてのなかでもっと悪く言い間違えられたもの。いまのところ。どうにももっと悪く言い間違えられなくなってはじめてもっと悪く言い間違えられたという。これっきりもうどうにもになってはじめてへたくそに最も悪く言い間違えられる。

サミュエル・ベケット『いざ最悪の方へ』

音楽の学習は、だれでも無自覚にはじめるようだ。
何でもそうだが、特に音楽は、音を扱う技術が必要で、これはことばをあつかうのとちがって、
特殊な訓練ということになる。
何のためかはかんがえずに、技術を身につけ、音楽をするよろこびだけでもなりたつ。
それ以上はかんがえずに、そのことに一生をついやすのが、ふつうだ。
何かおかしいとおもう、それは自分ひとりでおもいはじめることはなく、ほとんどの場合、
ひととであうことを通じておこるといえる。
自分のやったことをふりかえり、それが何だったかをかんがえる。
自分のやっていなかったことを発見して、生き方を変える。
こういう作用をおこすひととのであいは偶然ではない。
たくさんのひととであい、無数のことばをきき流して生きているなかで、生き方を変えるようなであいは、
自分でえらびとらずには、そういうものとして気づくこともない。
自分の内部に変わろうとする意志があり、変わらずにはいられない必然性があって、
それが外部からの機会と一致する、そのとき、変化がおこる。
自覚するのは、突然のできごとだ。だんだん変化していくことは、実際にはない。
人間が変わるというのは、どういうことか?いままでの生き方にあきる、
いままでの方法ではやっていけないことに気がつく、
いままでの態度が注意ぶかさに欠けていたことをさとる、これはまなぶことだ。
知らなかった、気づかなかったとみとめるのが、まなぶことであり、知識をひとつふやすことではない。

高橋悠治『たたかう音楽』

精神は これができる
魂は  あれが
心は  それ
意識は あれ それ。
人間の身体のみがすべてをなしうる。

(……)

私は無限である。
存在の欠点は、つねに私をひとつの存在へと連れ戻そうとすることであり、また本当はそんなものはないのに、ひとつの観念を要求することだ。――
つまりひとつの行為へと、ひとつの事実へと、ひとつの運動へと。
実際には、存在はひとつの身体に詰め込まれる。

(……)

そんなわけで、生きないことを、存在のうちに入ったり、存在したり、存在の大夜会に参加したいと思わないことを、つねに事物の感知できない境界、すなわち私が何であるのかを存在がわからないところにとどまっていることを承諾するならば、存在は私を実在させておき、事物が通過する状態のうちに、永続的に私を存在させておくだろう、決して事物を引き寄せたり、それらを私に合体させたりせずに。

(……)

生はつくられている
知性の輝かしさによってではなく、
単純さのもつ
精神的な美しさによってでもなく、
単純さのもつ客観的で
具体的な美しさによってでもなく
単純さそれ自体によってでもなく
その背後、遥か遠くの
殺戮によって
論理も意識もない
何もない殺戮によって。
そしてこれからもずっとそうだろう。

(……)

感性の世界には
音色が
声の量が、息と音調の塊がある。
それは生にその指標から出ることを強い、
生が喜んで閉じ込めていた器官と力を、人間の解剖の高台で自由にすることを強制する。

アントナン・アルトー 「カイエ1947」『アルトー後期集成』

「僕の場合、楽器をかかえなくては演奏できない。そして、それにまつわるあらゆる技術をたずさえている。
それ自体、疑問の余地が大きい概念だとは思うけれども、技巧という言葉が僕は好きだ。そこに込められた時間、物理的要素の結晶としての技巧ーもしかしたら、物理的なものだけではないのかもしれない。ただ、これに裏づけられているか否か、すなわちどれだけの時間の結晶があるか否かで演奏の違いがでてくる。また、作曲と演奏の違いもこれに大きくかかわってくると思う。また、観念と演奏との違いも。たしかに、観念が基本にあるわけだが、それの物理的コンテクストとして何に向かおうとしているのかを問うとすれば、かならず、この時間の結晶ということが出てくる。結局は行為の問題だから。」

デレク・ベイリー/インタビュー『即興音楽と時間ーー演奏の自在境におもむく』1978年

「即興というのは決して無から何かを手品のように生み出すことではありません。(……)どのような即興でも何かを基礎とし、背景を持っています。私はここで記憶とか練習のくせ、生理や肉体をあげてもいいと思います、またそのときの情念や感情といったものも。人はそれらの混在したもののなかから偶然に身をまかすようにして、即興的なことを行うのです。それはそれで広い地平だと思いますが、行きどころがなく、ある意味では限界づけられています。めったなことではそれを、つまり即興を即興で超えることはできません。
大きく言って二つの方法があると思うのです。即興によって無に達し、そこから何かトータルなものを逆に浮かびあがらせるという、即興へ身を投げかける方法です。(……)それともう一つは、組織的、方法論的な即興の追求で、即興を方法的に作業づけ、即興と非即興のあいだに厳格な道をもうけ、聞く方法です。」“スティーブ・レイシー”

「スティーブ・レイシーとの対話」『この旅に終わりはない』間章著 

 原則の永劫的な宿命について考えてみたいと思います。誰もが自分には原則があると言いますが、都合が悪くなるとその原則を棚上げにしがちです。一般的に、世間に通用する慣行に対して人が矛盾を感じたとき、そこに道義的な原則の問題が生じます。この矛盾を追求すれば、なんらかの結果を、ときには不快な結果を招きます。というのも、社会は原則の擁護を提唱していますが、それを現実の局面でも尊重すべきだと望み、矛盾を摘発する人々が出てくると報復するのです。
社会はそれ自体が標榜している原則を実際に体現すべきだという考え方は、ユートピア的です。というのも、道義的な原則というものは、ものごとの現実的な、そして今後も変わらぬありようと矛盾するからです。ものごとの現実的な、そして今後も変わらぬありようは、すべて悪であるとか、すべて善であるとかいうようなものではなく、どちらにも統一されない不完全、不整合、中途半端なものです。道義的な事柄をめぐって私たちが生きている培地は矛盾のぬかるみのようなものですが、私たちはもろもろの原則に突き動かされて、それをなんとかしようとするのです。原則に従えば、自分の行動を整理しよう、そして道義上の放縦、妥協、臆病さ、さらには、気がかりな事柄から目を背けるのはやめよう、という気持ちになります。ところが、その気にかかることというのが問題です。つまり、自分の行為は正しくないと囁きかけながらも、だからこそ、そんなことで悩まないほうが得策だと忠告してくる、あの密やかな心の煩悶。
反原則派の叫びーーー「私はできるかぎりのことをしている」。もちろん、現状のなかでの「できるかぎりのこと」にすぎません。
スーザン・ソンタグ 「勇気と抵抗について」『同じ時のなかで』

 およそ一つの思想の意義を明らかにするには、その思想がいかなる行為を生み出すに適しているかを決定しさえすればよい。その行為こそわれわれにとってはその思想の唯一の意義である。すべてわれわれの思想の差異なるものは、たとえどれほど微妙なものであっても、根底においては、実際上の違いとなってあらわれないほど微妙なものは一つもないということは確かな事実である。そこで或る対象に関するわれわれの思想を完全に明晰ならしめるためには、その対象がおよそどれくらいの実際的な結果をもたらすか――その対象からわれわれはいかなる感動を期待できるか――いかなる反動をわれわれは覚悟しなければならぬか、ということをよく考えてみさえすればよい。そこで、これらの結果がすぐに生ずるものであろうとずっと後で起こるものであろうと、いずれにしてもこれらの結果についてわれわれのもつ概念こそ、われわれにとっては、少なくともこの概念が積極的な意義を有するとする限り、その対象についてのわれわれの概念の全体なのである。
W.ジェイムス 『プラグマティズム』

 街道の持つ力は、その道を歩くか、あるいは飛行機でその上を飛ぶかで異なってくる。それと同様に、あるテクストの持つ力も、それを読むか、あるいは書き写すかで 違ってくる。飛ぶ者の目には、道は風景の中を移動していくだけであって、それが繰 り広げられてくる仕方は周辺の地形が繰り広げられてくる仕方に等しい。道を歩く者 だけが道の持つ支配力を経験する。つまり、飛ぶ者にとっては拡げられた平面図でし かないその当の地形から、道を歩く者は、道が絶景や遠景を、林の中の草地や四方に 広がる眺望を、曲折する度ごとに、あたかも指揮者の叫びが戦線の兵士を呼び出すように呼び出すさまを経験するのである。同様に、あるテクストに取り組む人間の心を 指揮するのは書き写されたテクストの方だけであって、これに反して単に読む者は、 テクストの内部の様々な新しい眺めを決して知ることがない。テクストとは、次第に 濃密になっていく内面の森林を通り抜ける街道なのだが、それがどのように切り拓かれていったのかは、単に読む者には分かりようがない。 

ヴァルター・ベンヤミン『1900年前後のベルリンの幼年時代』

――いつの時代、いずこの国とも知らぬふかい山の中に、ちょうどここと同じ池があって、その周りは大理石と雪花石膏の女神の像とに飾られていた。それは現在も、そのふかい山中に残っているけれども、だれも知らない。そしてその池と、いま眼の前にある池とが底の方でつながっているのだ。たぶんこの池の底が鏡になって向こう側の池のおもてを反射しているので、それで、こんなにまで四辺の山々がきれいに見えるのであろう。自分が今何でもない水源地の夕暮にやってきて、こんな想いをするのも、つまり自分がその忘れられた水郷のことをよく承知しているからだ。自分の心が以前にはそこに棲んでいて、それと似かよったこの水辺の風物に、ふと昔を偲んだのでないと、だれが云い得ようか?……

稲垣足穂 「煌めける城」『ヰタ・マキニカリス』

演奏しながら、ある音に光をあてることには、ただ一つの正しいやり方があるわけではない。
先験的にそういうものがあるとも言えない。
すべては、その場でふみだした一歩をどう評価するか、にかかっている。
評価のために立ち止まったり、まちがった一歩をはじめからやりなおすわけにもいかない。
ここでは、その作業は、計器を見ながらたえず進路を修正するパイロットのようなものだ。

(……)

自由が抑圧の別名であるように、音楽の論理は戦術にすぎない。普遍性の見かけをとった特殊性、
前提条件を問題にしない自由選択だ。
前提を受け入れてしまえば、そのようにしか考えられないが、ちがう前提によれば、別な論理がありうる。
そして、音楽への愛は、最終的には社会に対する裏切りだ。
それはやがて反転し、音楽への裏切りになるだろう。

 (……)

音楽の問題は、音楽の領域内で解決のつくものではない。
文化だけの問題でもない。社会を、個人を、生活を、思想をつらぬいている深い裂け目は、
全体の同時変革を、そのための集団的想像力の苦行を要求している。
それは、分裂の結果、抑圧の底に押しこまれてしまった魂の呼吸だ。
その声をきくことができる者は、枯れはてた草原に落ちる明日の火花となるだろう。

高橋悠治『たたかう音楽』

虫には色々な虫がいた。鈴虫や松虫もいたが、彼等は余りにも整い過ぎた楽師で、昔の人にいい処は皆聞き取られてしまった残りかすのようで、子供達を捕えるにはもう力が足りなかった。それよりえんまこおろぎのように、ざらにはいるが、未だ誰にもつかまったり、使われたりしたことのない、技術にうったえないどこか本然のものをそのままさらけ出しているようなものが、子供達をつかまえた。

河井寛次郎『火の誓い』

「私は自分の絵の中にいるとき、自分が何をしているのか知らない。ある種の<近づきになる>時期をすごしてからはじめて、私は自分がどんな状態にいたかを知る。私は変更したり、イメージを破壊したりすることを恐れない。というのも、絵はそれ自身の生命をもっているからだ。私はそれを思う存分のばしてやろうとする。結果が失敗に終わるのは、私が絵と接触を失った場合だけだ。そうでない場合は、純粋なハーモニー、楽々としたギブ・アンド・テークが生まれ、絵はうまくゆく」

ジャクスン・ポロック

「芸術はわたしを平和にも純粋にもしてくれるとは少しも思えない。わたしはいつも、俗悪のメロドラマにつつまれているようだ。わたしは内部とか外部とか、あるいは普遍的な芸術とかを心地よい場とは考えない。そのどこかにすばらしいアイディアがあることは承知しているが、そこに入ろうとすると、感覚がなくなってしまい、ごろりと横になって眠りこけたくなってしまうのだ。わたしを含めたある種の画家たちは、どんな椅子に自分が腰掛ているかなんて気にもとめないし、それが安全な椅子であってはいけないとさえいえる。かれらは座るべき場所を探しまわるにはあまりに神経質なのだ。」

デ・クーニング

 私が自分の音楽で用いている概念は、演奏者の一人一人を、自分自身の中心をもち他の誰からも独立して演奏するような完全なユニットと見なすことである。こうした自律性の尊重によって、即興演奏の独立した中心は、どんな瞬間にも、他のユニットからはなれた個人的な中心がつくり出す力だけに頼りながら、絶えず変化する。(中略)この姿勢は、即興演奏のサウンドとリズムの要素を、従属的な反応を通して実現されることから解放するこれは音楽創造のあらゆる源泉領域に及んでいるという点で、私の音楽を強調する基本原理である。
リーオ・スミス『ノート(8編) 源泉 新しい世界音楽/創造的音楽』

経験が媒介され抽象化される度合いがますます激しくなるにつれ、現象学的な世界に対する身体の生きた関係は、接触と存在感というノスタルジックな神話に代替されるようになる。「純正な」経験は、現在の生きた経験の地平の向こう側に置かれ、摑みどころのない、隠喩的なものとなる。骨董的なるもの、牧歌的なるもの、異邦的なるもの、またその他の作り事の領域が分節化される、向こう側、距離が広がってゆくこの過程の中で、身体の記憶は事物の記憶、つまり自己の外側にあり、それゆえに意味の余剰と欠乏をともにかかえた記憶に、代替される。

スーザン・ステュワート『見ることについて』1993年

「排除する」「抑圧する」「検閲する」「抽象化する」「仮面をかぶせる」「隠す」といった否定的な意味で、権力の影響を述べるのはもうこれっきりで終わりにしなければならない。実際は、権力は生産する。現実を生成する。事物の領域と真実の儀式を生成する。個人と、個人に関して得る可能性のある知識は、この生成に帰属する。

ミシェル・フーコー 『統制し、罰せよ』1975年

観客は熟考の対象から疎外される、それに屈服する(それはその人間の非思考活動のなせるわざなのだが)、それはこういう仕組みになっている。考えれば考えるほどその人の生きている度合いは減衰する。支配的な制度が提示する欲求のイメージのなかに自分の欲求を認めることがたやすければたやすいほど、その人間はみずからの存在と欲求を理解していない。個人の身振りはもはやその人自身のものではなく、まさにその事実のなかに、演技する主体をめぐるスペクタクルの外部性が現われている。身振りを演技する主体、それに対して身振りを表象する誰か、身振りのなかに観客が見いだすだれか――身振りはむしろその誰かのものなのだ。どこにでもスペクタクルはある。それゆえ観客はもはやどこにいてもくつろげない。

ギー・ドゥボール 『スペクタクルの社会』

キャンディは言う、自分の体が嫌いになってきた
それにこの体が必要とするものすべて
キャンディは言う、一から十まで知ってしまいたい
みんなが恐る恐る喋っていることを

キャンディは言う、静かな場所は嫌い
先行きにまるで期待が持てないから
キャンディは言う、大きなことを決めるのは嫌い
いつまでも頭の中で訂正してしまうから

肩ごしに青い鳥が飛んでいくのをみていよう
わたしを通りこしてゆくのを見ていよう
たぶん、わたしがもっと歳をとったら
いったい何が見えると思う?
もし自分から去っていくことができたら

ルー・リード 『キャンディ・セッズ』

 最近東京を騒がした有名な強盗が捕まって語ったところによると、彼は何も見えない闇の中でも、一本の棒さえあれば何里でも走ることが出来るという。その棒を体の前へ突き出し突き出しして、畑でもなんでも盲滅法に走るのだそうである。
 私はこの記事を新聞で読んだとき、そぞろに爽快な旋律を禁じることが出来なかった。
 闇!そのなかではわれわれは何を見ることも出来ない。より深い暗黒が、いつも絶えない波動で刻々と周囲に迫って来る。こんななかでは思考することさえ出来ない。何が在るかわからないところへ、どうして踏み込んでゆくことが出来よう。勿論われわれは摺足でもして進むほかないだろう。しかしそれには苦渋や不安や恐怖の感情でいっぱいになった一歩だ。その一歩を敢然と踏み出すためには、われわれは悪魔を呼ばなければならないだろう。裸足で薊(アザミ)を踏んづける!その絶望への情熱がなくてはならないのである。

梶井基次郎 「闇の絵巻」『檸檬』

自制心など求めない。自制心とは、自分の精神存在が限りなく発散するなかの任意の一点に自分を限ろうとすることだ。自分のまわりにそんな環を引かなくてはならないとしたら、むしろ何もしないでその途方もないかたまりをじっと見つめていよう。見つめることから逆に与えられる勇気を身につけて、家路をたどるとしよう。

精神は支えであることをやめるとき、ようやく自由になる。

道は果てしなく、引いても足してもどうにもならないのに、誰もがなおも自分の幼い物差しで計ろうとする。「計った分は、どうあっても行かなくてはなるまいよ。肝に銘じ遠くとしよう。

フランツ・カフカ「アフォリズム集成」『掟の問題』